明治43年洪水9月2日  岩手日報記事(9日)より
洪水の被害 〜盛岡市全体
 ▲死傷者 2,▲家屋の全壊半壊破損及び流失 盛岡市422,▲浸水床上床下共249,▲堤防決壊破損 3箇所58間、 ▲道路流失、埋没、破損27箇所延長3610間、▲橋梁流失,破損16、▲田畑宅地山林原野雑種千野埋没及び流失17町5反▲同上の浸水785町、
 午前5時の電話
 2日の夕方から恐ろしい雨になって、それが一晩降り続けたのだから、中津川は非常に増水して流れの音が次第にすさまじくなってきた。3日の午前5時頃になると県から電話でもって毘沙門橋の流出と、北上川3橋の危険を報じてきた。もし夕顔瀬と開運橋を失ったら、軍隊との連絡が切れてしまう。これは大変というので早速出かけた。
 いってみるとなるほど危険だ。自分は橋の落ちるのを見たことはないが、橋の上に立って土木官吏の説明を聞いていると、上流から来る材木が橋に突き当たって足下に響く、その恐ろしさはなんとも言えないので蒼惶として橋を逃げ出したくらいであった。


大正9年洪水9月9日
簗川方面に被害激甚3橋流失す 〜交通途絶し避難民を救助する術なく
                               大正9年9月10日 岩手日報記事より
 9日以来の豪雨いまだ止まずかくかせんともに刻々増水し、家屋の流失、橋梁の流失等おびただしく、殊にも昨夜9時頃よりまたまた豪雨猛然として全市を襲い、まず岩手郡簗川は1条2尺の増水を見、東安庭簗川部落は24戸浸水し、うち流失せし家屋2戸あり。
 付近の橋梁で流失せるは、澤田橋・葛西橋・簗川橋の3橋影もとどめず流失せり。而してこれがため釜石方面は交通全く途絶し、付近の浸水家屋居住民を救助する術絶望にて、同中野村長より工兵八大隊へ申請して兵隊の出動を乞える有様なりき。


昭和6年8月洪水昭和6年8月10日
今朝盛岡署の調査         昭和6年8月12日 岩手日報記事より

△中野駐在所  簗川橋危険なので交通遮断し目下消防、青年団員総出動警戒中。なお、上小路浸水20戸、床下1尺位、簗川の30戸全部浸水。
昭和13年洪水昭和13年8月15日

梁川村は水地獄「斎藤盛岡所長わらじ履きで巡視」
〜全滅の惨状を語る
                       昭和13年8月19日 毎日新聞(東京日日新聞)記事より
 30年来の大雷雨の一過したあと、各地の被害は甚大で、県保安課に舞い込む水害報告は一報毎に惨また惨を伝えているが、就中盛岡署下岩手郡梁川村のごときは荒れ狂う水魔のため全村を蹂躙され一村全滅の悲運に見舞われた。
 斎藤盛岡所長は17日ごろ来夕刻までわらじがけで梁川水禍のあとを視察したが、それによると橋という橋、道路という道路は水魔に奪われ一面泥の海と化しながらのあの洪水を偲ばせる惨状を呈しているとのことで、判明した被害は落雷による家屋全半壊3、死者2名を出したのを初め、堤防決壊8ヶ所、破損8ヶ所、道路埋没15ヶ所、破損5ヶ所、橋梁流出17ヶ所、水田の埋没30町歩、同浸水30町歩、畑埋没20町歩、同浸水30町歩、損害20万円を突破している。
 右につき斎藤所長は語る。
 「梁川村の惨状は言語に値するものがある。同村は山と山に挟まれているので簗川はじめ両方の山の沢や川から一時に出水し全村に氾濫、橋梁や道路を全部濁流が流したもので、幸い死者は3名で済んだが、近来の水禍に見舞われたのだ。
 この打撃にもひるまず17日から全村民総動員で復興に立ち上がったのは全く感激を禁じ得なかった。
出水の犠牲
 岩手郡梁川村農小笠原寅蔵孫芳美君(16)は、16日午前7時誤って自宅前の濁流渦巻く砂子沢川に転げ落ち押し流されたが、17日朝溺死死体を発見。

橋梁13流失            昭和13年8月17日 岩手日報記事より
 簗川筋においては午後9時半頃早くも宮古街道が上小路はずれの二ッ家から同トメ茶屋に至る約七〇間の開が頑丈な花崗岩の護岸もあと勝たなく道路は見る見る流失、前記トメ茶屋並びに付近数件は轟々たる濁流に洗われ危険に瀕し、矢永上村方面上流との交通全く途絶したが、この上流に架せられた▽根玉部落2▽落合1▽増澤1▽大平1▽川目1▽福名湯1▽内野1▽鑪山2▽澤田1の計11橋は同時刻すでに流失。
 その橋材が猛烈な勢いで流れてきてぶつかるので、中野小学校上手から対岸孔子廟の山麓を通って乙部街道に通じる村道に架せられた昭和2年竣工のコンクリート葛西橋も見る見る危険となり、同10時に至りついに簗川よりの根本から7部通り流失してしまい、ほとんど同時に神子田から対岸簗川に通じる乙部街道大正6年架け替えの簗川がひとたまりもなく傲然たる音響と共に全橋流失、これで簗川に架してある橋梁13が全部流されてしまい、簗川方面並びに乙部長岡方面との交通はすっかり途絶してしまった。
 水勢いっかな衰えず簗川橋北上川落合付近下流北上川に設置してあった手代森耕地整理の用水ダムはこれも前提跡形もなしに流失、また簗川橋上流付近数カ所の果樹園はどれも濁流に洗われて枝もたわわにリンゴを付けたリンゴの木がどんどん流され、簗川村寄り簗川橋橋畔の自転車屋佐藤清巳さん方は根田の下の土が崩れて流されてゆき、濁流の上に家が半分乗りかかり青年団に救助された。
 中野神子田、簗川の各青年団消防組は午後8時非常呼集を行い徹宵警戒配置についたがあまりに予想しなかった猛烈な増水のため全くての施しよう無く拱手するのみであった。なお小麦試験場は被害がないが上流方面において山崩れの箇所があり、人の死んだ噂もあるが目下詳細は調査中。

盛岡市宮古街道は簗川氾濫のため岩手郡中野村地内で400m決壊、中野小学校はじめ民家も一時危険に瀕した。写真は決壊した宮古街道(点線は道路のあったところ)




キャサリン台風昭和22年9月15日

各地の被害状況        昭和22年9月19日 毎日新聞(東京日日新聞)記事より

 17日午後8時県警察部に入った県下各地の被害状況は次のとおり。
▽盛岡市=家屋流出10、同全壊20,半壊70,水浸し4741,橋梁流出5,道路決壊5ヶ所。


恐怖の一夜〜荒れ狂う水魔の猛威     昭和22年9月17日 岩手日報記事より

 盛岡市では15日午後3時ごろ前潟、厨川方面、神子田方面から浸水し初め逐次低地域の市街地へ侵入、夜9時から10次の増水は最高に達し、雨空にサイレンや半鐘が響き低地帯の人々は要約不安の色を濃くした。
 このころ鉈屋町、川原町、神子田方面は床上三尺の浸水で濁水は道路上を流れ、町内の屈強なものは明治橋、杉土手付近の防備にかり出され、残った家族が階下の家財を全部二階に上げたり、リヤカーや荷車で安全地帯へ運搬するものもあった。
 神子田方面北上川よりと簗川部落では付近の学校へ避難するひまが無く、屋根裏にこもって不安の一夜を明かしたものが多く、河原町字満日の市立病院には夜10時頃10名の患者がいるところへ付近の人々40名が避難してごった返している折も折、水勢に押されて蒸気ボイラーの煙突が一台音響をあげて取り付け口からはずれたが、病室の屋根を危うく外れ死傷者はなかった。


免税なども考慮〜盛岡市の水害対策   昭和22年9月17日 岩手日報記事より

 盛岡足の水害地対策は19日市会協議会を開き次のように決定。財源は私有林の間伐や伐材により捻出することにした。
▽食料関係=簗川・門・前潟・神子田・川原町・木伏の罹災地に10日分と4日分の2回に分けて繰り上げ配給する。


おとなしかった中津川〜植林の威力痛感 小泉盛岡市長語る 
                            昭和22年10月1日 岩手日報記事より
 今度の水害で北上川や雫石川がものすごい氾濫ぶりを見せたのに、同じ盛岡市内に流れ込んでいる中津川だけが第1次から第3次の水害にも全然氾濫しないばかりか19年の水害に比べてみても今度のほうが雨量もはるかに多いのに水位がかえって減っている、という奇現象に目を付けた小泉市長さんが中津川畔の市長室で終日首をひねったあげく、「中津川が氾濫しなかったのは明治43年の洪水直後上流沿岸に行った植林のたまものだった」と前提、小泉式治水構想を次のように語った。
 「植林で降雨量の2割2分を抑えるというのが一般原則だが、中津川が今度の水害から免れたのはまさに明治43年の水害に懲りた県が当時の金で13万円という莫大な費用をかけて護岸工事をやると共に洪水記念と称して沿岸一帯2千町歩の植林を断行したことが今日実を結んだわけだ。あれからちょうど40年。ようやく壮年期樹齢に達した森林が中津川の水害を救ってくれたことは明らかだ。
 これに反しこの川の分水嶺から区界にかけての反対側閉伊川沿岸は植林をやらず、そのうえ大東亜戦争で乱伐の結果は山田線始まって以来の被害を生んだ点から見ても、治水即植林がどれほど大切であったか、毎日眺めている中津川につくづく教えられる。
 今度は植林だけはどんな犠牲を払ってもやらねばならないと思う。」



 
緑化運動を展開〜紫波仏教界が裸山の追放へ  昭和22年9月24日 岩手日報記事より

 ふるさと山々を昔の姿に戻そうと紫波仏教界では植林運動を提唱、郡内各方面に呼びかけて大々的にこれが実行を図ることになった。
 今度の相次ぐ大出水は戦争中の濫伐がその最も大きな原因であることは万人の認めるところ「国敗れて山河あり」といつまでも嘆いておるべきでは時ではないと会長武田寛随氏(志和村隠里寺住職)を初め郡内35箇所の住職が結集して緑化運動に乗り出すもので昔の名僧知識が衆に先んじて治山治水を説きこれが実線に先鞭を付けたことにあやかってこの計画を立てたもの。
 戦時の強行伐採がついに寺々の年経た古杉をもなぎ倒しその太い切り株は敗戦の痛々しい記念碑のように残されて、見るものの胸をうずかせているが、これが長夜の悪夢と諦めるにしても幾百戦の生霊を奪い莫大な損害をもたらした今時水害は天災として手を束ねて見送るべきではないというのが主張の眼目で、盛岡営林署で経営している煙山村の苗保に苗木を交渉市町村当局はもちろん群下各町村の森林組合、青壮年団体の郷土愛に訴えて郡内から裸山を追放しようと住職さん達は法衣の袖を絡げて出動準備中。
 なお同仏教界は先に群北方面を托鉢行脚して得た浄財を引揚者援護資金に送ったがさらに22日日詰古館を托鉢して千円を本社首唱の水害見舞金に、千円を遺族会群連合基金に寄付し日詰古館両町村に250円ずつ贈るなど目覚ましい活躍を続けている。



アイオン台風昭和23年9月16日

県下各地の被害      昭和23年9月18日岩手日報記事より

 17日午後9時までに本社に達したその後の被害、次のとおり。
 盛岡=盛岡市内の被害は昨年の水害に比較してやや少ないと見られるが、簗川の増水のため簗川橋の袂の道路決壊(13m)を初め葛西橋、沢田橋の仮橋も流出したため盛岡市中心地と簗川方面の交通は全く途絶した。
 同市の被害報告によれば次のようになっている。
▽浅岸字柿ノ木平石垣流出10m▽同字場野堰堤決壊40m▽下米内北潟浅岸橋流出57m▽東中野葛西橋仮橋流出45m▽毘沙門橋橋脚1脚流出▽馬場小路おんまや橋橋脚3脚流出▽上米内中居道路決壊350m▽東中野沢田橋仮橋流出30m▽上水道送水管冠水千m4ヶ所、取入口左右岸流出▽冠水田158町4反▽冠水畑49町▽家屋浸水235戸(うち床上97戸、床下138戸)

【参考】当時の仮橋の姿(写真は昭和15年洪水時に流出した夕顔瀬仮橋)
《県境の悲劇》宮城は実る秋、岩手は水地獄
離脱を願う永井「悔しい県の放任ぶり」   昭和23年9月29日岩手日報記事より

【永井村にて西沢特派員発】
 ここ県南の「流れ八ヶ村」の一つ永井村の305町歩の水禍は水害後10日目、今なお丈余りの濁流のもとに運命の挽歌を奏で、2千余名の農民を悲惨な生き地獄へたたき込んでいる。
 佐藤村長は県の生温い対策に業を煮やしていち早く本県離脱を声明、老知事を面食らわせて今後の動きは注目されている。
 本県の財力の貧困さは、永井村と夏川の流れを挟んで合い接する宮城県登米郡石越村の数百町歩の水田を見れば明らかである。
【写真中央の道路を境に向かって右が冠水して湖水となった東磐井郡永井村の水田、
左は黄金の穂並みに揺れる宮城県登米郡石越村の美田】
                 
 
 立派な石垣造りの幅の広い堤防と配水機関・配水溝で守られ、豊年の喜びをその美しい黄金の波に見せている。
 一方、本県の永井村の堤防は幅の狭い低い土固めのもので、またもや水魔の跳梁に任せ貧弱な配水機関も破壊され1万3千石は収穫皆無の惨状だ。
 永井村はこの天国地獄の分かれ道に立って今や背に腹は変えられずと、隣県宮城への編入を図って本県を離れようとしている。
 この永井村の去就は続いて流れ八ヶ村にも響くであろうと注目される。





昭和33年洪水昭和33年9月17日
48年ぶりの水禍〜《盛岡地方》濁流が一階軒下まで  
                             昭和33年9月20日 毎日新聞記事より
 盛岡地方では、氾濫した北上、雫石両河川とも19日朝から減水し始め部落の公民館や親類などに一時避難していた被災者達は、川の泥を洗い落としたり家財道具の整理など、復旧作業に取りかかっている。盛岡の水害は実に明治43年以来の記録だった。
 18日午後5時ごろ、北上川と雫石川は刻々と増水し、北上川明治橋の水位は4.15m(警戒水位1.2m)雫石川は太田橋水位3.4m(同1.8m)に達した。
 このため両河川沿いの仙北町、神子田、木伏、河原町、前潟一帯は水浸しになった。なかでも開運橋〜夕顔瀬橋間の木伏通りは土地が低いため濁流が渦を巻いて押し寄せ、たちまち110戸の家屋は一階の軒下まで水が溢れた。人々は逃げるのが精一杯。家財道具は家に残したままだった。
 また明治橋下流1500mの地点(仙北町新山地区)で両岸の堤防が約20mにわたって決壊、付近の20戸(30世帯150人)は濁流に取り巻かれ二階に避難した。水は大地時報面にも溢れ、盛岡市結核療養所では患者を2階に避難させた。
 さらに午後8時ごろ雫石川貞任橋付近の堤防が決壊寸前になったので盛岡署、盛岡消防署、自衛隊員ら約200人が警戒に当たり、盛岡市では新田町、三十軒町に避難命令を出した。午後10時ごろ堤防の一部が決壊しただけで治まった。
 盛岡市では市役所内に水害対策本部を設けた。

各地の被害状況
▽盛岡=負傷者1,床上浸水991,床下浸水644,一部破損1,非住家被害4,畑・水田流出埋没1町歩、道路損壊1,橋梁流出8、崖崩れ4,電柱倒壊2,被災世帯数1636(約4808人)
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